神南火
何人か镜を把りて、魔ならざる者ある。魔を照すにあらず、造る也。
即ち镜は、瞥见す可きものなり、熟视す可きものにあらず。
--斎藤绿雨〈霏々刺々〉
2009年6月19日
莊子的鏡喻
鏡を看よといふは、反省を促すの語也。
されどまことに反省し得るもの、幾人ぞ。
人は鏡の前に、自ら恃み、
自ら負ふことありとも、遂に反省することなかるべし。
鏡は悟りの具にあらず、迷ひの具なり。
一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、
少しづつ、少しづつ、迷はされ行くなり。
(齋藤緑雨 『霏々刺々』より 讀賣新聞 明治32年)
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2009年6月7日
吳小如《中國文史工具資料書舉要》
戒嚴的那個年代,很多書都怪怪的,例如出版年月日、作者或是出版社,尤其是作者和大陸那邊有關係的時候,託名、匿名、缺漏或分冊等都是躲避法條的辦法。我手上有幾本怪怪的書,那樣的時代,愛書人想讀書,卻又不能明目張膽的印、買、讀,就有其時代背景的做法,久了也就奇怪成自然了。
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